デジタルマーケティングという言葉は、バナー広告が取引され始めた、1990年代初頭から使われています。その市場規模は、昨年アメリカで7兆円に達し、すでにテレビを超えているとも言われています。日本でも、デジタル広告は、広告市場全体の2割に迫り、1兆円を超えています。このような、広告主の積極的な投資からは、すでにデジタルマーケティングが実験的な試みではなく、一般的な実務になっていることがわかります。
しかし、現在も多くの広告主が、デジタルマーケティングにおける決定的なスキルギャップ(技能不足)に悩まされています。2016年10月のCMO Surveyの調査によると、デジタルマーケティングは企業にとって最も重要なスキルであると同時に、最も不足しているスキルでもあるのです。デジタルマーケティングの教育が盛んで、人材の流動性も高いアメリカ市場でさえ、広告主が十分にデジタルマーケティングのスキルを習得できない理由は一体何なのでしょうか?
マーケティングの業務範囲は急激に広がっています。Web、サーチ、CRM、ソーシャルメディア、ディスプレイ広告、オンライン動画、データマネジメントなど、テクノロジーへの対応を迫られるたびに、新しい専門知識を取り入れなければならないのです。CMO Surveyの調査からも、過去5年間でマーケティングの業務範囲が大きく広がっていることがわかります。しかも、この業務範囲の拡大は、技術革新のペースと比例しているため、今後も加速度的に進むことが予想されます。
このように広範囲の専門性を要するデジタルマーケティングでは、専門知識を集約したマネージャーが、個々の専門家に詳細な実行指示を出すような管理方法は現実的ではありません。それぞれの専門家が、全体における自身の役割を理解し、自律的に連携をするオーケストラのような体制が望ましいのです。
奏者から指揮者へ
複雑なシステムの自律制御を可能にすることを「オーケストレーション」といいます。デジタルマーケティングの体制構築に本当に必要な人材は「奏者」のような特定領域の専門家ではなく、様々な専門家のオーケストレーションを通じて、マーケティング全体を向上させる「指揮者」なのです。指揮者の存在によって、専門家は外部環境の変化に応じて入れ替えや、切り捨てが可能な「モジュール」になります。そして、指揮者としてのスキルを習得した広告主は、持続的に新しいテクノロジーを取り入れ、活用できるようになるのです。
モジュール型組織の必要条件
指揮者の下で、入れ替え可能な専門家が自律的に連携・稼働する組織を「モジュール型組織」と言います。イノベーション理論の第一人者であるクレイトン・クリステンセン曰く、モジュール型組織が機能するためには、以下の3つの条件が必要となります。これらの必要条件を満たすことが、指揮者の役割であると言えるでしょう。
特定性:目的や、解決すべき課題が明確に説明されること。コミュニケーションでは、広く理解されている用語を正しく活用し、物事を厳密に定義しなければならない。
予測可能性:業務が円滑で予測可能な方法で連携すること。連携が各自の負担とならないよう「プラグアンドプレイ」が可能でなければならない。
検証可能性:広く受け入れられている成果指標を活用し、課題の解決、目標の達成が提供されていることを明らかにしなければならない。
これらの条件をマーケティングに当てはめて考えると、オーケストレーションに必要な要素が見えてきます。業務の特定性には「マーケティングの基礎知識」と「マーケティングブリーフ」、予測可能性には「カスタマージャーニー」、そして検証可能性には「共通KPI」。これらがあれば、マーケティング組織のモジュール化ができるのではないでしょうか。
特定性:マーケティングの基礎知識とマーケティングブリーフ
広告主と広告会社には、共通言語が必要であることは言うまでもありません。正しいプロセスと、用いられる用語の正確な定義が理解されなければ、マーケティングの仕事はどうしても手法先行型になってしまいます。広告主と広告会社の間で、戦略的な議論がされることはなく、具体的な手法の一つひとつを、主観的に細かく確認するという不毛な作業が永遠に続くのです。デジタルマーケティングに携わる会社は、技術的な専門性を持っていても、マーケティングの基礎知識を持っていないことが往々にしてあります。デジタルマーケティングの専門的な分野に特化した会社を採用する際は、互いに共通言語を確立するための、オンボーディング期間を設けることが効果的です。
マーケティングの基礎
専門家は本来、マーケティングの全体を監督するマネージャーよりも、担当分野における判断力があるはずです。それでも、具体的な手法の確認が細かく発生する場合は、求められる業務内容が十分に伝わっていないことを意味します。細かい指示なく、自主的に稼働するチームには、プロジェクトの必要条件を共有するための「マーケティング・ブリーフ」が必要となります。
マーケティングブリーフは、広告主が欲しいものをオーダーするためではなく、課題に対するソリューションを、専門家に提案してもらうためのドキュメントです。特にデジタルの領域では、専門知識を持たない広告主が、自ら効果的なソリューションを立案することができないため、ブリーフによる詳細な合意形成が欠かせません。マーケティングブリーフに決まったカタチはありませんが、プロジェクトの背景、エージェンシーに求めること、成果指標、活用可能な資源や、制限事項などを含めるです。
マーケティングブリーフ項目 テンプレート
予測可能性:カスタマージャーニー
主に認知率の向上を担うマスマーケティングとは違い、デジタルマーケティングは消費者の購買行動全体を横断的にカバーしています。マーケティング効果を最大化するためには、扱うテクノロジーや手法により、担当領域が異なる専門家同士の連携が欠かせません。専門家同士の自主的な連携を実現するためには、マーケティング施策の全体像と、それぞれの役割が描かれたカスタマージャーニーが必要になります。
カスタマージャーニーがあれば、無数のデジタルマーケティングの手法から、目的の達成に必要なものを戦略的に選ぶことができ、手法先行型のマーケティングに陥ることもありません。まずは「認知 → 興味・関心 → 購入意向 → 購入」程度のシンプルな段階ごとに、目的となる生活者の行動変容、それに伴う態度変容、必要となる刺激、そして最適なコンタクトポイントをリストアップしてみましょう。そして、商材に応じてジャーニーの段階を細分化すれば、チーム全員のマーケティング活動における指針となるドキュメントが完成するはずです。
検証可能性:共通KPI
マーケティング投資からリターンを得るためには、ROI(投資対利益)に基づいたKPI(成果指標)を設定し、その達成に向けて業務の改善を行います。PVや、再生回数などの量的指標や、CPCなどの価値指標は単に計測しやすいだけであり、マーケティングの効果を示す指標ではありません。直接的なROIを示すCPA(顧客獲得単価)が、eコマースや、ダイレクトレスポンス広告のように、計測できない場合は、態度変容を成果とし、カスタマージャーニーの段階毎に、その人数(量的指標)、達成率(質的指標)、そして、獲得単価(価値指標)を設定します。
マーケティング予算や、対象商品の粗利額、ターゲット人口などの数値から、これらのKPI正しく設定することにより、ジャーニーの異なる段階に向けられた、様々なデジタルマーケティング施策を共通の基準で評価することができるようになります。さらに、これらの指標はデジタルに限らず、オフラインの施策にも当てはめることができ、マーケティング全体における、デジタルの優位性や、適正を特定することにも活用することができます。
積極的な投資にもかかわらず、広告主が十分にデジタルマーケティングのスキルを獲得できない理由は、その業務範囲が広がり続けているからです。次々に現れる新しい技術を効果的に取り入れ、強固なデジタルマーケティングの体制を構築するためには、共通言語の確立や、業務内容と成果指標の可視化を通じた、オーケストレーションが欠かせません。デジタルマーケティングに対応するために、私たちは現在のマーケティング組織のあり方から見直さなければならないのだと思います。